2008年02月24日
サツマイモの歴史
日本列島におけるサツマイモの歴史とはどのようなものなのでしょうか。
今の時期には石焼芋美味しいですよね。
伝来史
1604年、琉球王国(現在の沖縄県)に伝わる。野國総管(明への進貢船の事務職長)が明(今日の中国福建省付近とされる)からの帰途、苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、儀間村の地頭・儀間真常が総管から苗を分けてもらい栽培に成功、痩せ地でも育つことから広まった。野國総管は芋大王(うむふうすう)と称えられるが、サツマイモを持ち帰ったこと以外は、よく知られていない。
後に麻平衡・儀間親方真常によって琉球全域に広められ、王国民を飢餓から救ったと伝えられている。
1609年、薩摩(現在の鹿児島県)藩主・島津家久は、徳川幕府の許可を得て琉球を攻め、幕府による鎖国が続く中、琉球からの年貢および明、清との交易を通じて、異国の文物、情報を得ることになる。
その後尚寧王より薩摩へ、また1698年には尚貞王より種子島へ送られ、種子島久基の命により種子島での栽培が始まった。なお、三浦按針が1615年平戸(長崎県)に持ち帰り九州で栽培が始まった。
1705年(1709年とするものもあり)、薩摩山川の前田利右衛門は、船乗りとして琉球を訪れ、甘藷を持ち帰り、近隣に広めて「カライモ」と呼び、やがて薩摩藩全域で栽培されるようになった。利右衛門は民間人として初めてサツマイモの栽培を広めたとされ、「甘藷王」として地元であがめられ、サツマイモの神様として祭られている。
1732年の享保の大飢饉により西日本が大凶作に見舞われ深刻な食料不足に陥る中、今日の長崎県と鹿児島県では餓死者を出さなかったといわれ、サツマイモの有用性を天下に知らしめることとなった。八代将軍・徳川吉宗はサツマイモの栽培を関東に広めようと決意する。そして起用されたのが、青木昆陽であった。当時、彼は儒学者としての才能は評価されていたが、その才能を買っていた八丁堀の与力加藤枝直が、町奉行・大岡越前守忠相に推挙、昆陽は、同じ伊藤東涯門下の先輩である松岡成章の著書『番藷録』や中国の文献を参考にして、サツマイモの効用を説いた「蕃藷考」を著し、吉宗に献上した。
1734年、青木昆陽は薩摩藩から甘藷の苗を取り寄せ、「薩摩芋」を江戸小石川植物園、下総の幕張村(現千葉市花見川区)、上総の九十九里浜の不動堂村(現九十九里町)において試験栽培し、1735年栽培を確認。これ以後、サツマイモが関東一円に広がるきっかけをつくった。その後、サツマイモは東日本にも広く普及するようになる。
幕末から明治期には川越の赤沢仁兵衛が実験・研究しまとめた「赤沢式甘藷栽培法」によって収穫量が劇的に増加する。
このように、サツマイモは飢饉時に多くの人を飢えから救ってきた。
各地にサツマイモの伝来の逸話がある。→ 愛媛県大三島では1711年にサツマイモを伝えその後の飢饉を救った下見吉十郎を顕彰した「いも地蔵」など。
サツマイモは栽培しやすいことから、太平洋戦争後の食糧難の時期にも、国民の食を支えてきた。しかしながら、食糧事情が良くなるに従って、次第に果樹等に置き換わり、サツマイモはあまり顧みられなくなった。一方、品種改良によって甘みを増した事から、むしろ飢饉食・主食の代替というより、おやつ、お菓子の原料とみなされるようになった。
近年、健康食品や、いも焼酎の原料として注目されている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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